2012年、印象に残った本10冊

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以下、順不同(今年読んだ本で、今年出た本ではありません)。

  • それでも、日本人は「戦争」を選んだ
  • 困ってるひと
  • 「科学的思考」のレッスン―学校で教えてくれないサイエンス
  • ストーリーとしての競争戦略
  • 当事者の時代
  • デフレ化するセックス
  • ぼくは勉強ができない
  • 虐殺器官
  • わたしがいなかった街で
  • なずな

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

日清戦争から太平洋戦争に至るまで、日本が起こした戦争が侵略であったことを前提とした上で、それではどんなロジックや必然性で戦争しかないと日本が選んでいったのかを説得的に解き明かす。

終戦前後と原爆にまつわる情緒的な戦争批判と、侵略戦争という観点だけからでは見えない、戦争が日常的に起こり、普通の選択肢であった時代の政治感覚というのがちょっとだけ理解できた気がした。

何より、太平洋戦争開戦に際して国民が、弱いものいじめをしているような後ろめたさを感じていた日中戦争に比べて、日本より国力の高い英米と戦うのだから明るい戦争だと歓迎した、という説は目から鱗が落ちるようだった。

『これからの「正義」の話をしよう』でサンデルは、コミュニタリアニズムを取る理由として、同性婚の是非(=結婚制度の目的を何に置くか)などを例に挙げて「中立な立場」は存在しえなくて道徳的・宗教的判断を含んでしまうことを示していた。この本を読んで、「まっとう」な感覚、について考えさせられた。

困ってるひと

([お]9-1)困ってるひと (ポプラ文庫)

([お]9-1)困ってるひと (ポプラ文庫)

東京に出て大学で過激にビルマ難民の研究・支援をしていた著者(「ビルマ女子」)が、自己免疫疾患系の日本ではほぼ前例のない難病にかかって、難病と付き合いながら生活していく方法を築こうとするまでを書いたエッセイ。おれは著者と同い年。

現代日本において、窮地に陥ったわたしのような難病患者が「どうやって生きていけるのか」の問いに対する処方箋は、皆無」、つまり文字通り難民化していることを認識し、死に物狂いで社会制度と戦いながら自分自身で生活していく『道』を切り開いていく。

友人たちに甘え、頼り、疲弊しきった友人たちに「もう、無理だと思う」と告げられるところが一番印象的だった。その場、その時の本心である「何でもするよ」「何でも言って」が、しかし持続不可能であること、ビルマの難民キャンプでの活動で学んだそのままの状況に自身が陥っていたことに絶句する。

そこからビルマ難民が頼っていたものを思い返し、持続可能な頼れるものは社会の公的な制度だけであることを悟り、日本の複雑怪奇な社会補償制度との格闘を始める。

「困ってるひと」というタイトルも秀逸で、喜劇でも悲劇でもなくて「困っている」という、ほぼ日の対談でも述べられている著者の態度がうまく表されていると思う。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 健全な好奇心は病に負けない。 大野更紗×糸井重里

そうです、みんな困ってるわけですよね。社会が動き、数多の不条理が発生しているときに、価値概念をまず最初に導入してくることは いちばんまずいなぁと思っています。

そのとき起きたことや発言に対して、「正義か悪か」「良いか悪いか」みたいな話に終始する。それでみんな論争し、紛争するわけです。具体的にどう対処するか、の手前で思考が止まってしまう。

「科学的思考」のレッスン―学校で教えてくれないサイエンス

科学的に考えるとはどういうことか、科学の方法論についての誠実な入門書。

反証が可能であることの重要性、コントロール(対照群:二重盲検定が分かりやすい例)の重要性、相関関係と因果関係の読み違えやすさなど、事例や巧みな練習問題を使って読みやすい文章で解説している。

「対立仮説を棄却していく」ことが明文化されていなかったことだけが残念だけど、学生時代に学んだことが見事にまとめられていた。何より、科学は白黒ではなく真理はないが仮説には相対的な「良さ」があることを示しているのがよかった。

そして本書の後半、被爆リスクを例に「市民の科学リテラシー」の大切さを説いている部分は、非常に考えさせられた。

おれはこの本を読んではじめて、ベクレルとシーベルトの意味を明確に理解した。

のだけど、それすら現時点では完全に忘れてしまっている。

つまり被爆リスクについてまさにこの本に書かれているようなことを考える必要があるからこそ、「市民」は成立し得ないのではないかと思う。

ストーリーとしての競争戦略

「優れた戦略とは思わず人に話したくなるような面白いストーリー」であり、静止画ではなく生き生きした動画、分析ではなく一貫した因果論理による総合だと、サウスウエスト航空・アマゾン・ガリバー等を紹介しながら戦略のおもしろさを語る。

ベスト8進出(目標)、誰々をスタメンで起用する(組織編成)、グラウンドのコンディションはこうなっていて(環境)、最近のサッカーの世界の潮流はツートップで(ベストプラクティス)、日本代表としての誇りを胸に(気合と根性)。そのどれも戦略ではない。

戦略作りとは判断基準を作ることだと感じた。高付加価値/低コスト/無競争(ニッチ)のどこに軸足を置くかを決めて、本当のところ誰に何を提供して顧客はなぜ喜ぶのかを物語のようにリアルにイメージしてコンセプトを表現し、成功と失敗の境界条件をきちんと定義しておく。

印象に残ったのは、「誰をターゲットにしないか」を明確にすることと、肯定的な形容詞を使わずにコンセプトを表現すること。

「最高の品質」とか「顧客満足の追求」では、思考停止に陥り本当のところ誰が喜ぶのかがぼやける。サウスウエスト「空飛ぶパス」、スターバックス「第三の場所」、ホットペッパー「狭域情報誌」はどれも価値中立的な言葉である。

当事者の時代

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)

佐々木俊尚さんが<マイノリティ憑依>という強力な概念を提示した本。<マイノリティ憑依>とは、当事者性を失い、弱者や被害者の気持ちを神の視点から勝手に代弁すること。

「「被災者の前でそれが言えますか」という発言。あるいは、福島の母子の気持ちを勝手に代弁する多くの人たち。」

感想⇒ <マイノリティ憑依>という強力な概念の提示 - あいうえおかの日記

デフレ化するセックス

デフレ化するセックス (宝島社新書)

デフレ化するセックス (宝島社新書)

これは今日読んだ本なのだけど、衝撃的だった1冊。

帯の「供給過剰な女たち」という実態が、具体的な金額の推定に基づいて説得的に紹介される。

採用偏差値という概念を導入し、クラスで何番目くらいにかわいくてこれくらいの胸のサイズだと、こういうところで働けて月収はこれくらい、とか、地域による価格差はこれくらい、というのを赤裸々に書いている。

生活水準を考えると、東京で一人暮らしをする女子大生の3人に1人くらいは風俗予備軍で、体を売るのはもはや誰でもできる仕事ではない。

ぼくは勉強ができない

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

ぼくは勉強ができない (新潮文庫)

「お前はすごい人間だ。認めるよ。その成績の良さは尋常ではない。でも、おまえ、女にもてないだろ」とクラスメートに言い放つ、バーで働く年上の女性と付き合う高校生の主人公が、自分の違和感を説明する言葉を掴みとっていく青春小説。

とても饒舌な著者で主人公に託した価値観を独白するために登場人物たちを転がしていくような小説だけど、パンチラインが強烈で、そうだ!そうだ!と言いたくなる魅力があった。

たとえば主人公の友達の女の子はクラスの女の子たちが純愛ごっこをするのが嫌だとこう言う。「クラスの女の子なんて、セックスの経験乏しいからさ、わかんないのよ、きっと。神経が、下半身までまわんないのよ」

そんな主人公が大学に進学することを選びとる描写はちょっとぐっときた。

虐殺器官

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

友達に教えってもらって伊藤計劃の『虐殺器官』『ハーモニー』を一気に読んだ。

現在の脳科学や医学・薬学の行く先について突き詰めて妄想したことがある人ならば誰でも興奮するであろうSF。設定がとにかく緻密で、数十年後の近未来には必ず実現するであろう技術をベースに描かれている。

『脳はなぜ「心」を作ったのか』という本を学生時代に読んで、リベットの自由意志の実験に衝撃を受けてから、その先について考えを進めた本についに会った、という感じで大興奮して読んだ。

わたしがいなかった街で

わたしがいなかった街で

わたしがいなかった街で

主人公は36際、平日は派遣社員として働き、休日は戦争ドキュメンタリーを垂れ流している、大阪育ち東京在住で少し前に旦那と離婚した。

「死ぬまで二度と会うこともないからさようなら、と言い合って別れたことはない」「だとしたら、会うことがない人と、死んでしまった人と、どこが違うのか」。永井均の「解釈学・系譜学・考古学」のようなことを、主人公はいつも考えてしまう。

主人公は、「会えるかもしれない、とわたしは思い続けることができる。会わなかった年月の分、年を取った彼らと。」と考えるに至る。それが今年の自分の気分とマッチしていた。

今まで読んだ柴崎さんの小説ではどれも、一見なんともない日々の蓄積でも、自身の状況も感じ方も確かに変わっているのが描かれる(『虹色と幸運』も好き)。今回の小説には圧倒的なクライマックスシーンがある(映画『八日目の蝉』の小豆島のお祭りシーンがほんと美しくて説得力があったように)。

あと京橋や大阪城など自分の生活圏が、違う表情で登場して、新鮮だった。

なずな

なずな

なずな

この小説はおれにとってとても大切な小説になった。

『なずな』(堀江敏幸) : 本屋さんへ行こう!

主人公は赤ん坊に対して、一回も「かわいい」という言葉をつかわないのである。

東京を離れ田舎の新聞社で働く独身40代の主人公が、突然弟夫婦の生後2ヶ月の赤ん坊なずなを預かることになる。

なずながやってきてから周りの人が初めて聞く話をふとしてくれることが多くなり、そして主人公の視点や関心、解像度が変わっていくのが淡々とくっきりと描かれる。食事の描写がとにかくおいしそうで、たくさんの野菜を煮込んだスープとか炊き込みご飯を作って食べたくなる。

はじめて自分以外のものを中心に生活することになる主人公。対してなずなは本人は周りの世界のことなどどこ吹く風で気ままに泣いたり眠ったり喃語を発したりしながらにして、どこにいっても世界の重力の中心になってみんなを引きつけその関係性を変えていく。

ポスドクさんや後輩の子どもに振り回されながらいつまでもじゃれていたくて、年の離れた後輩でもそうなんだけど、人が時間を経て変わっていくのを間近で見ている贅沢は、おれも知っている。でも自分の価値観や人とのつきあい方を変えてしまうのは、四苦八苦しながら一緒に暮らしてこそなのだろうと思った。