今日曽我部恵一バンドを見て感じた衝動と感傷について
梅田シャングリラに曽我部恵一バンドを見に行きました。
曽我部さんが突然ギターを叩き折っていて、そんな曽我部さんは初めて見たし、興奮したというよりただあっけにとられた。それを見て、全裸事件のロッキンジャパンで、さっきまで松葉杖をついてた峯田がドラムセットに飛び込んだときのことをなんとなく思い出した。
なんか今日おれが曽我部恵一バンドを見ていたときの気持ちって、大学1,2年のころに銀杏を聴いていたころの気持ちに近かった気がする。あの頃、銀杏のライブでは、おれも前に前に人にぶつかっていったりしていて、そして今日の青春狂走曲では久しぶりにそんな衝動にかられた。
今日のこの衝動と感傷をおれはきっと忘れないだろう。
と言いたくてしょうがない気分なんだけど、だけどたぶんそれは嘘で、おれは忘れていくのです。
友達がずっと聴いていると言っていた「文化系トークラジオLife」というラジオ番組を、おれもここのところpodcastでちょこちょこ聴いてみたりしています。
一番新しい回のテーマが「未知との遭遇」で、その中で「未知と出会うことは、つねに何かとの決別を伴うのではないか」みたいな話が出ていました。
これについては、
404 Blog Not Found:人の命が平等でも、人の注意は平等になりえない
仮に人の命が平等だとして、誰もが誰もを平等に扱わねばならぬとしたら一体何が起きるだろうか。
人の一生を80年とすると、秒に直すと2,524,556,160秒(一年=365.2425日で換算)。25億秒だ。これに対して、世界の人口は現在およそ66億人。ある人が別の誰かを「扱う」時間は、平均で0.38秒しかないということになる。産まれてから死ぬまで、一瞬も寝ないとしてもこの数字なのだ。
というエントリーを読んだときに、それまで考えていたことをはっきり数字で示されて、そして1秒以下なのかということがショックでした。
『抜擢される人脈力』という本の中で「人脈レイヤー」という概念が定義されていて
抜擢される人脈力 P10
人脈スパイラル・モデルを一周りするごとに「人脈レイヤー」が上がり、自分の能力も、付き合う人(人脈)のレベルも、活躍するステージのレベルも、「スパイラル(らせん状)」に昇華していく
ということが書かれていて、これはうまい概念だなと思いました。
そしてこの本には、
抜擢される人脈力 P227 人脈はレイヤーアップさせなければ意味がない
人脈は、これまで「無限に横に広がっていくもの」と考えられてきました。しかし、ビジネス上での人脈は、広がった人脈の中で、「A:残っていく人脈グループ」と「B:陳腐化していく人脈グループ」に峻別せざるを得ないことが起きます。特に自分のレイヤーが上がったときに「人脈A」だけが残る、というようなことがあります。
(中略)
ですから、少し酷な言い方ですが、もしこれまでの人脈の中で、自分だけが上のレイヤーに上がってしまったと感じたら、その人脈はひとまず卒業したほうがいいでしょう。
と書かれています。
これは完全に同意しますが、問題は「ビジネス上での人脈は」という部分です。
ビジネス上の人脈とプライベートの人脈は完全には分けられない、ということもあるし、そもそもプライベートの人脈でも小学校、中高、大学、そしてこの春から、さらに言えばその物理的な区切りの中でも時期ごとに、おれは同じことを繰り返していると思います。
つまり、人は生涯に払える注意量に限りがあって、そして新しい人との出会いがある以上、人を「卒業」したり、人に「卒業」されたりしていくのだと思います。
一時期自分にとって特別な存在だった人、ある層の人脈レイヤーに引き上げてくれた人、を自分で勝手に「卒業」していくことを考えると、いつも恐ろしい気持ちになります。さらに「一層上」のレイヤーでうまく行っていないときに、自分が一度は「下」と判断した人脈レイヤーの人に甘えてみたりするのです。
この問題は、おれにとっていつも大きな問題だけど、結局おれはそういう冷酷な人なのです。そして、ある瞬間におれが大きなの注意を払っている人が、もしおれに大きな注意を払ってくれたとしたら、その幸せを精一杯かみ締めようと、そういうあまりに月並みなことしか思い至らないのです。
銀杏BOYZとか曽我部恵一バンドとかロボピッチャーのライブで暴れるときは、おれの中のこのやるせなさを発散しているのだと思います。
4年以上前に、まだ10代だったおれはこんな日記を書いていて、それから何の進歩もなく同じことを繰り返していて、これからも繰り返していくのです。
2004/10/25 (月)
すれ違いながら走り続ける人生の中で、思いが1つになる瞬間なんてごくたまに、本当はごくたまにしかなくて、だとしたら、だとしたらこんな顔を見られる僕はなんて幸せなんだろう、こんな風に喜べる僕はなんて幸せなんだろうと思った
ドラマ版せかちゅーで、亜紀が2人だけの大会で自己ベストを出したときの山田孝之のナレーションです
これはちょっとぐっと来ました。
恋愛にしても友情にしても、信頼にしても尊敬にしても、俺は人間関係なんてものは所詮片思いだと思います。こっちが心から好きな人とか信頼している人で、普通に仲良くしていても、お互いのお互いを思う気持ちが、それも同時に、一致することなんてなかなかないですよね
さらに、もしかしたら本当は一致しているのかもしれないけど、それを確かめられる瞬間なんてそうはないわけです。本当はお互いがお互いを心から思っていても、ちょっとしたことですれ違ったり
結局相手が自分のことを本当のところどう思っているのかなんて分からないわけじゃないですか
口では何とも言えるし、態度だって何とでもなるし。相手に合わせるのは簡単なことではないけど、合わせずにきまずくなるよりはずっとエネルギーを使わないし
だから誰かと付き合ったとしても永遠に片思いは続くのかな、と思ったりするわけです
でもそれでいいんですよね。そんなことに疑心暗鬼になるのは無意味で、だからこそ人間関係を築いて、楽しく日々を過ごしていけるわけです
俺は、人に対して、この人は俺のことを嫌いにならないとか、何があっても俺から離れないでいてくれるとか、俺を絶対裏切らないとかは思わないんです
でもそれは俺にとって人を信じないってことじゃないんです
俺は自分が心から好きな人のことは、全面的に信頼します。心のうちをほとんど何でもさらすし、その人の言うことにもろに影響を受ける。ものすごく甘える。何してても、何もしてなくても、一緒にいて本当に楽しい。
その人のためなら喜んで自分を犠牲にするし(それは俺にとって自分を犠牲にすることじゃないから)、場合によっちゃ命をかけてもいいと思ったりもする。他の人を傷つけてでも行動することもあると思う。
俺が全面的に信頼するっていうのは、その人のことを本当に好きで「この人になら何されても、裏で何言われてても、悲しくはあれ、諦められるな」って思うくらい好きな人なんです。
信頼してるんじゃなくて、ただ好きなのかもしれないけど
もちろんそういう人だからこそ近くにいてほしいし、ずっと友達でいたいし、そりゃちょっとやそっとのことで壊れる関係ではないと勝手にかもしれないけど思ってますよ
でも人間関係には運やタイミングってものも大きく作用するわけです。何となくお互い疎遠になったり、ほんのちょっとしたことですれ違ったり、必死であがいても元通りには戻れなかったり、そういうことも多々あるわけです。
他の人の本当の気持ちなんて決して分からないから
でも、だからこそ自分が心から好きな人の本当に楽しそうな顔が見られたとき、近くにいてくれる人の幸せを自分が心から喜べたとき、もしかしたら思いが1つになったかなと思えたとき、それは本当に幸せですよね
俺はそんな風に思っています
- 作者: 岡島悦子
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