自分らしさ(笑)の何が気持ち悪いのか

『自分探しが止まらない』を読んだ。一気に読み、ついでに思想地図vol.3の鈴木謙介「設計される意欲」を読み返した。

前回の文化系トークラジオLifeを聴いて読みたいと思ってから、届くのを待ちたくなくて本屋を回ったもののどこにもなくて新書の足の早さを感じつつも、Amazonでは普通に買えたのでよかった。

自分探しの歴史や事象について幅広く紹介し(中田英寿PR会社陰謀説とかおもしろかった)自分探しがもたらした問題を指摘しながら、速水さん自身があとがきに書いているように代替策は提示されていない。


おれは静的な自分などというものは存在しないと思っているし、この本で描かれている内向きの自分探し(自己啓発本に代表される)の中毒性はちょっとした体験で抜けられると自分の体験から感じる。

ウェブ時代をゆく』に大きな影響を受けて今の仕事を決めていて(今でも特別な本です)、自己啓発本を読みあさった時期がある。そういう時期を通るのは悪くないと思っていて、自分自身の問題としては内向きの自分探しは解決している。


一方、外向きの自分探しについて、自分自身も「何事も経験」という経験至上主義に与していると思うし、環境を変えることや新しい体験が自分を変える(=新しい自分を見つける)というのは体感にも合う。卒業旅行で一ヶ月間海外放浪みたいなものに対するあこがれもある。

さらにそれでも感じる「自分探し」に対する気持ち悪さを、リア充に対する妬みのようなものと区別するのは難しい。一時期話題になった王将の新人研修のようなものについても、(すぐにやめて他に雇ってもらえるところがあるのかという問題はあるにせよ)離脱することは可能で、それで充実感を感じて働く人がいる以上、批判できるのか分からない。


「設計される意欲」に書かれおり前回のlifeで話題になっていたように、問題なのは搾取(この本でいう「自分探しホイホイ」や、やりがいで騙して本人の意志で低賃金で働かせること)で、やりがいを設計することにはおれは肯定的で、むしろそういう環境で働きたいと思っている。

思想地図vol.3の『設計される意欲』や『アーキテクチャと自由』に書かれている、仕掛ける側/何も気づかずに仕掛けられる側という非対称な関係ではないか、相互のフィードバックによるゆらぎが発生しうるかというのは、判断の一つの拠り所になると感じた。


たまたま最近『中学生からの哲学「超」入門』を読んでいて(おもしろかった!)、この本との繋がりも感じた。

ヘーゲルの目指した、自由職業、自由恋愛、古くさい共同体から自立して社会的な個人として認められること(無縁みたいなもの)という3つの近代的自由は今やゆるやかに達成されてしまい、目指す自由を失って、若くて可愛い女の子とキャッキャしたいとか、才能を発揮して金持ちになりたいというようなぼんやりした希望(「一般欲望」)が残った。

その欲望は自分が育まれてきた環境の中で作ってきた自己ルールからもたらされるもっともなものであり、低俗なものでもなければコントロールできるようなものではない。しかしそれは競争的な欲望であるため、その欲望に執着すればほとんどの人は不幸にならざるを得ない。

それでも今の時代は、いざとなったら与えられた条件をリセットする可能性が法的に保証されている。欲望への執着が自分の生をダメにすることを理解できたときには、自己ルールを編みかえて自分固有の生の目標を見出すことができるはず。それが自分の意志を持つということではないか。という話。

そしてそのための処方箋として、自分が身につけている「良し悪し・美醜」の感覚が基づくルール(「自己ルール」)の理由を説明できる言葉をためること、そして友人といろいろなものを「批評」しあうことでお互いの自己ルールを交換しあって調整しあっていくことを挙げている。


「自分らしさ」の気持ち悪さとは、批評不能であることなのかなと思った。

自分探しが止まらない (SB新書)

自分探しが止まらない (SB新書)