それが今自分が解くべき問題なのか

『イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」 』を読んだ。

元ネタとなっているのは以下のエントリー。おれがこれらの一連のエントリーを読んだのはM2の秋で、実験に結果が出ず、焦りが閾値を越えてあまり実験もせず現実逃避していた。

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人を育てるラボの特徴 - ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Being between Neuroscience and Marketing


それからなんともラッキーなことに1つだけインパクトのある写真が撮れて、教授をはじめとする研究室の方々もこれでお前も卒業できると喜んでくださって、だけどそれを掘り下げることもできないまま、学生最後の数カ月を謳歌しておれの研究生活は終わった。


上記のブログは、エントリーの反響が大きかったから本を執筆したい、と書かれ、楽しみにしつつも、そのうちブログもめっきり更新されなくなった。2年が経ってやっぱり本は出ないのかなと思っていたので、先日半年ぶりくらいに更新されたブログで「本がついに世に出せそうです」と書かれていたときはうれしかった。


年が明けて、2009年、相変わらずバイトに現実逃避しながら、いよいよ時間切れとなってとりあえず修論を書いた。

修論を書き、修論発表のパワポを発表練習しては直す中で、3回生の後半に初めて先生の話を聞いたときの興奮から、先生が常々おっしゃっていたこと、研究室に入って自分がやってきたことが、あるとき、すうっと1本のストーリーとしてつながった気がした。

この動物でその問題を解く必要があるのか、その問題に対してどんなメッセージを打ち出すのか、まさにこの本でいう「はじめにイシューありき」ということだったと思う。

マイナー動物なので確立された実験手法は少なく、とりあえずできることを全部やって、そこから何か結論を考えようというやり方を取りがちだったんだけど、先生は「とにかく観察して、仮説を立てて、それを検証するために必要な実験をするのがサイエンスだ」と、いつも苦言を呈されていて、それはこの本のメッセージと完全に重なる。

スライドを作るときは、タイトルだけを順に読んでいけばメッセージが一つのストーリーとして自然に伝わるようにしなければならない、ともいつも言われた。

そこがどうしてもつながらないと、誰に何を伝えたいのか考えずに実験を組んできた証だと嘆いてらっしゃった。


修論を提出して、最後のイベントの修論発表会。

発表は五十音順だったので一番最後だったんだけど、これは伝わった!という感触があって、質疑の最後に他の研究室の先生からほんわかする質問が出たところで場の緊張が緩んで一気に穏やかになって、修論発表会が終わった。

最後の最後の2つの体験が、おれにサイエンスの醍醐味を教えてくれて、思い出は美化され、それから卒業までサイエンスに対する思いをブログに書きなぐったり、後輩をつきあわせては聞いてもらったりした。


欲を言えば、(マッキンゼーやヤフーでの実例は書けないだろうから)既にパブリッシュされた論文かフィクションを交えた話でもよいので事例があるとよりうれしかったけど、この本は文理問わずすべての学生(本のターゲットはビジネスマンだろうけど)を励まし、勇気と実践的なアドバイスを与えてくれる本だと思う。

部分的な実例は載っているし、もちろん考え方の話だけじゃなくて、こういうときは○○を比較するためにこういう図が効果的、みたいな具体的な内容が中心です。

ビジネス書、ましてやマッキンゼーというキーワードがついているだけで拒否反応を起こす人が少なくないと思うけど(個人的はあの人の初期の本はライフハック集として結構好きだけど)、この本は巷にあふれる課題解決とか思考法の本に対するカウンターとして書かれているので、冒頭に挙げたエントリーだけでもぜひ読んでみてください。


この本を学部4回生のときに読んでいたら、って思ってしまうけれど、それでも今この本を読みながら研究室での出来事や漠然と感じていた不安や不満、あるいは夢を重ねあわせることができたのは幸せな体験で、いい先生の下について3年間を過ごしたことを強く感じました。


イシューからはじめよ――知的生産の「シンプルな本質」

イシューからはじめよ――知的生産の「シンプルな本質」