「「すべて」について、ちょっとは気の利いた一言を差し挟むことができる技術」


『切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』を読んだ。

「それ知っているよ、これこれこういうことでしょ、それってそういうものに過ぎないね」と脊髄反射的に言えるようになること。それによってメタレヴェルに立ち、自らの優位性を示そうとすること。

ために、知と情報を得なくてはならない、日々最新のものにそれを更新しなくてはならないという強迫観念に対して

それは実は過激に見えて何も変えず何も生み出さない、自堕落な安逸に浸りきった享楽にすぎない

皆、命令を聞き逃していないかという恐怖に突き動かされているのです。情報を集めるということは、命令を集めるということです。いつもいつも気を張り詰めて、命令に耳を澄ましているということです。

と、「読む」ことを「「情報」というフィルターをかけて無害化」していると、冒頭、痛烈に拒絶する。


そこから「読む」ということ、革命とは読み書き変えることであったという話が展開されて、「文学」と「暴力」の分離すらも普遍的なものではないことが解き明かされていく。


そして、ラスト第四夜後半から第五夜。

「自分の生きているこの時代に、歴史は決定的瞬間を迎えているのであり、決定的な終わりや始まりを自分が生きている」ことを明確に否定して、そもそも

詩も、歌も、ダンスも、楽器も、リズムも、蜜の味も。あるいはさりげない日常の挨拶とか、挙措とか、表情とか

がすべて文学であること、0.01%であってもその可能性に賭け続けることが、終わりなき日常を変革していくのだと鼓舞する。


おれはキリスト教イスラム教や近代史、近代思想について知識がないので、正直言われるほど読みやすい本ではないと思うし(読めない漢字も多かった…)、タマフルインビクタス評や秋のタマフル推薦図書特集での補助線がなかったら読破できなかったかもしれない。


2010年、自分に起こった大きな変化は、友達に教えてもらってタマフル(『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』)のpodcastを聴きだしたことで、そこでインビクタス評を聴き、『ブラスト公論』を読んだ。

KAIKOOでやけのはら+Dorianのライブを観て、初めてラップを聴くようになった。

この本で冒頭拒絶されているものは、ついこの間までまさにおれが憧れていたものだし、今でもそれは変われてはいないと思う。

宇多丸さんが常々言っている
「自分にしか歌えないことを歌ったものがいいラップ」
「今まで見ていた景色が、映画観終わった後に、映画館の外に出たら違って見えるような体験がしたくて本を読み、映画を観る」
ということをこの本を読んで思い返し、今年は新しい楽しいことを1つ知り、憧れがちょっと変わった1年になったと改めて思いました。