具体的に「誰」にどんな体験を提供するのか

とかく「お客様のために」と簡単に言ってしまいがちですが、その掛け声で思考停止したら終わりだと思っています。


例えばおれはSI業界で B to B のビジネスをしている会社で働いていますが、お客様はだいたい大きな企業の情報システム部門です。

それではシステムは、顧客企業の情報システム部門のために作るのか、経営層のために作るのか、エンドユーザ(実際にシステムを使って業務をする人)のために作るのか。それともその企業の顧客のために作るのか。

よい情報システムというのは、だいたいにおいて人から仕事を奪うものです。万が一、直接の顧客がまさに大企業病的だった場合に、その意向に沿うようにシステムを作るのか。


情報システム部門というのは、社内でコストセンターとして扱われており、立場も低いことが多いと思います。

エンドユーザの利便性を高めて各自の本質的な業務に力を集中できる環境を用意し、企業の利益に貢献する。それによって情報システム部門に貢献する。その見返りとして、生み出された利益の一部をいただく(「パフォーマンスベース契約」的に)。

というのは優等生的な回答ですが、そういう方向に進んでいくしかなくて、おれは今のSI業界のビジネスモデルは破綻していると思っています。

作ってみないと分からないことは設計書に書かずに、設計書に書いてある最低限のことだけを満たして、それから誰も読まないドキュメントを大量に作って、体裁を整えて、ちゃんと契約を履行しました。エンドユーザからの苦情が来てもそれは設計書に書いてある仕様通りで、今から変えるとなると莫大な追加費用がかかります。

それは何も間違っていないんだけど(というか、それすらなかなか出来ないわけだけど)、そのやり方ではそれなりの扱いしか受けないのは当たり前です。

エンドユーザからも経営層からも絶賛されて、直接会っている情報システム部門の人が誇らしい気持ちになるシステムを作りたいと、現時点では考えています。



おれは学生時代に4年間居酒屋でアルバイトをしました。


祇園という立地、隠れ家的なイメージ、個室で雰囲気重視、そんな京都に住む者としてちょっと憧れるようなお店。時給は安かったけどまかないが素敵で、おいしいものも心地よい人間関係もたくさん教えてもらった。

なんだけど、アルバイトを始めて半年くらいが経ったときに、新しい店長がやってきて、店のやり方ががらっと変わった。

団体客が入れるように店を改装して、飲み放題をはじめて、細やかな心遣いがどんどんカットされていった。

おれはそれまで教わってきたことを、すべて「お客様のため」だと思ってやっていたので、新しいやり方がお客様より店の都合を優先させるやり方に見えて、熱くなった。

あの頃のおれは、もういつ首になってもいいと思っていて、だけど本気で店のことを思っていて、アルバイトにそういうこと求めてないからっていう自重を一切せずに、半年間本気で怒って、怒られた。店長とおれの怒鳴りあいを見ては、後輩の女の子が泣いていた。


半年間喧嘩しつづけて、年が明けてふと力が抜けて、新しい店長のやり方のもとで育っていく後輩たちがお客さんに愛され、店の売上が伸びていることにはじめて気がついた。

おれがこだわっていたのはまさに「床屋の満足」で、それは自分の妄想上の客に向けた自分の満足のための接客だった。

Life is beautiful: 床屋の満足

そのエッセイの筆者は、「いかにも床屋に行ってきました」という髪型をして人に合うのが恥ずかしいので、いつも床屋さんに行くと、「床屋に行ったばかりとは分からないようにしてくださいね」と頼むのだそうだ。しかし、ほとんどの床屋がそのリクエストを無視して、「いかにも床屋に行ってきました」という髪型にしてしまうらしい。彼は、床屋さんにとっては、お客を「いかにも床屋に行ってきました」というさっぱりとした髪型で店から送り出すことが仕事の充実感・満足感を与えるとても大切な要素となっている、と結論付けていた。



明日で今年度が終わる。

1ヶ月だけ夢の中でもプログラミングをしていた時期があったけど、あとは何に追われるでも、何に苦しむでもなく、かつてなくのんびり過ごした1年だった。

自宅で勉強できるようになり、バイトがない週末を1人で過ごすことに慣れ、勤務先でも適度な人間関係を築き、それなりの成果を残してそれなりの信頼を得た、新人として順調な1年になったと正直思う。


そんなことはもう終わりにしよう。おれはこんなことのために就職したんじゃない。

おれは今だって感情の振れ幅こそが生きる意味だと思っている。