ポスドク問題と基礎研究を考えた

ポスドク一万人計画によってポスドク(博士取得後の任期付きの研究職)が大量に生み出され、恒久的なポスト(教授)が足りず、高齢になってもポスドクのままである、あるいは任期終了後の次のポスドク職を探すのも困難になっている

という問題をポスドク問題と呼ぶそうです。博士取得者の一般企業への就職難も似たような構造だと思います。

一時期ずいぶん話題になったこの話を、いまさらながら、だけど就職する前に考えてみました。


一介の修士課程の学生として考えると、解決すべきことが2つあると思います。


1つ目は、博士課程への進学が容易すぎる→博士のもっと多数に競争的に給料を出す
2つ目は、科学者に「伝える」という視点が足りない→どれだけ一般の人に「伝わった」かを評価に組み込む

博士課程への進学が容易すぎる

プログラマー35歳定年説というのがあるそうです。

プログラマ 35歳 定年説 - 仙石浩明CTO の日記

35歳ぐらいになったらプログラミングなんて仕事は若い人に譲って、マネジメントをやりなさい、という趣旨ですね。

その理由として、体力的な面だとか、歳をとってくると新技術を覚えられないとかが、あげられるようです。実際、多くの企業でプログラミングは新人ないし外注の人 (最近はオフショアも増えてきました) の仕事とされ、中堅社員はマネジメントや上流行程を担当することが多いようです。


このブログ記事ではこの定年説に対してこのような考えが書かれています。

プログラマの 35歳というのは、医師や弁護士にとっての国家試験であり、奨励会棋士にとっての 23歳であり、芸術家や料理人にとっては、師匠に認められるか否か、ということなのではないでしょうか?つまり、他の「高度な知的労働」の職種では、定年うんぬん以前に、そもそもその職業につくこと自体に壁があります。どんなにその職業に従事したいと思っても、国家試験に合格できなかったり、初段になれなかったり、師匠に認められて弟子にしてもらえなかったりすれば、 35歳よりもっと早い段階でその道をあきらめることが多いのではないでしょうか。

まとめると、プログラマには少なくとも二種類あって、他の「高度な知的労働」の職種と同様に定年がない「優秀なプログラマ」と、若いだけが取りえの「見習いプログラマ」とを、きちんと区別する必要があると。で、「見習いプログラマ」は 35歳といわず、もっと早い段階で、プログラミングに向いてないことを自覚し、もっと自分に向いている仕事を見つけるべきだ、ということですね。


これがサイエンスの世界にも当てはまると、僕は思います。

現状、修士から博士への進学は実質無審査みたいなものです。

しかし就職できなかった人、社会ではやっていけないような人が博士に進むというのでは、話になりません。極論を言えば、そういう人の割合が高いので、博士号取得者は企業に嫌われ就職できず、アカデミックの世界でもなかなかいいポストにもつけず、それを見て優秀な人はますます修士で卒業して博士に行かない、その悪循環だと思います。それでは人数だけ多くてもサイエンスが前に進むはずもなく、それこそ税金の無駄遣いです。

そうではなくて、博士に進学するときに、向いていない人ははっきりと「向いていない」と知らしめる絞込みが必要だと思います。

学生の人数によって研究室に振り分けられるお金もあるみたいですし(詳しいことは知りません)、実際学生が人数いないと仕事は進まないので、研究室の主宰者にそのようなインセンティブがないことは分かります。


そこで例えば、学術研究員のような制度をもっと拡大して、博士は給料をもらえるのが普通みたいな状態を作っていけばいいのではないかと思います。それは博士課程の学生には一律にお金を出すというのではもちろんなくて、学振よりは採用される人数が多くて、「この競争的資金も取れないようではこの世界ではやっていけないよね」というような雰囲気になるような制度を作ったらどうかと思います。

学振はDCが700人, DC2が1200人くらいみたいで、これにもらえる年数(3年と2年)を掛けると、年間4500人くらいの博士課程在籍者が給料をもらっているみたいです。

これを仮に年間4万人に月20万ずつ支給するとすると、年間約1000億円です。全国で何人くらいが博士課程に在籍しているのかが調べられなかったのですが、これをもらえる人だけ博士に進学するようになると、ざっくり言って半分くらいに減ると思います。

給付金の総額2兆円のうち5%ほどこちらに回していただけると、だいぶ日本の将来は明るくなると思うのですが(笑)

科学者に「伝える」という視点が足りない

「大学の研究は税金を使ってやっている以上、本来成果はすべてオープンにならなければならない」という話を聞いて、なるほどと思いました。

これはまとめきれずに埋もれているデータがあまりに多い、という話だったのですが、基本的に科学者は「伝える」という視点をもっと持つべきだと、ぼくは考えています。


基礎科学の目的というのは、「応用研究よりは長い期間で見て、技術革新に役立つ画期的な発見を目指す」というものではないと、思います。

「スクール」の語源はギリシャ語の「余暇」であるという話があって、基礎研究は本来生活に余裕がある人が、「知的好奇心を満たす」ためにやるものであるという考え方に、ぼくも同感です。

基礎研究に費用対効果なんて考え方を持ち込むな、というのでは決してなくて(税金の無駄遣いとしかいいようがないお金の使われ方も確かにあると思う)、その「効果」の部分をどう客観的に評価するかが問題です。

工学や農学のことは分かりませんが、少なくとも理学を特許の取得件数やそこから生まれた利益などだけで測るのは無理があります。「人々の知的好奇心を満たし、どれだけ感動させたか」という指標も必要だと思います。


1つは論文の被引用回数とか、ダウンロード回数というのが客観的な指標として使われていると思います。しかし、これは基本的に同業者相手に伝えているに過ぎず、一つの指標に過ぎません。

これと並行して、教授なんかは「何冊本を書いて、それが何万部売れているか」というのを、評価の一部に組み込んだらどうか?というのが、個人的な意見です。「進化しすぎた脳」を読んでぼくは感動したので、「中高生向けの講演を何回やって何人集めたか」というのも組み込んでもいいかもしれない。


このことは、長い目で見れば確実に科学の地位を押し上げると思うし、「背景や既知の事実を俯瞰的に理解し、それらを組み合わせてストーリーを作って、プレゼンテーションする」というのは、どこにいっても価値があるスキルだと思うので、科学者がこういう方向にもっと目を向ければ、博士取得者のアカデミック以外での価値も上がると、ぼくは考えます。


基礎研究が一般の人々を興奮させ、独自の研究をして新しいストーリーを作り一般の人を感動させた研究者が、高い評価を受けて名誉や金銭を得る、そして優秀な人が研究者に憧れ志す、そんな風になることを願ってやみません。



そして、どう考えてもぼくにはその能力がないと気づけたので、就職することにしたのです。